セミリタイアをする人は、自分の芯がしっかりしている
計画的にセミリタイアをする人は、自分の芯がしっかりしている人です。全く軸のぶれない、芯のしっかりした人たちが多いように思います。
もっとも、彼らに限らず投資家の皆さんと話していると、全く違和感なく時間を過ごすことができます。人からの評価というよりも自分の評価軸を優先しており、そのため価値観がぶれず、勉強になるのですね。
先日、前職の2年後輩と話しましたが、彼は非常に上昇志向が強く、忘れていた感覚を思い出させてくれましたね。上司の言うことは絶対、残業も絶対、仕事第一、人生の成功はイコールで管理職という後輩です。
大変懐かしく思うと同時に、会話していて言葉を選ばないといけないと思いましたね。例えば、こういう発想は気を付けなくてはいけません。
- お金がお金を稼ぐ
- 組織の人事の話はリタイアするとどうでもよくなる
- 学歴が人生の豊かさを担保するわけではない
- 仕事を頑張ると言っても、方向性はいろいろある
そのつもりはなくとも、組織に全力投球している人の否定になるのですね。
当たり前ですが、最近はすっかりセミリタイアが板についています。自然体で組織に対しては「まあいいじゃない」という、ゆるいトーンになります。また、価値観の合う別の同僚は今もよく会って話をするため、自分自身の常識のズレを忘れていましたね。
組織に没頭している人は、人事の話が話の最大の興味になります。たった2年前まで、そのあたりは注意を払っていたはずですが、久しぶりに思い出しました。
セミリタイアをしてから、文芸で身を立てていると思われていた(笑)
セミリタイアをしたときに、一部の同僚は私が株や太陽光のインカムで仕事を辞めたことを知っていました。しかし、今もほとんどの人は知らないはずです。「どうして辞めるの?」と聞かれたときに、「株と不動産で生活しています」とは答えていません。
代わりに「ものを書いたり、思いを人に話したりして生活しています」と答えています。セミリタイアしても、ブログや語る会は続けるのだろうな、と思っていたからです。人の役に立つというのは、本能的なものですね。収入以前に、そういう思いは尽きることがないのです。
前職の2年後輩は、私の経済的な事情は当然知る由もありません。そもそも、私がものを書いて生計を立てていると思っています。もの書きというと、文芸、小説家のイメージがいまだに強いですね。まさか経済系のブログや寄稿が、もの書きを意味するとは思っていないのです。
彼はいい人なので、「戻るときはいつでも声をかけてください」というような発言をしていましたね。ありがたいことです。
ちなみに文芸は一部の天才を除いて全く食べられません。なかなか受け答えが難しいと思いました。間違ってもコロナショックで一撃リターンを得て、それでBMWのSUVを買ったなどとは言えません。BMWはSAVというらしいですけどね。
セミリタイア生活が長くなるほど、ズレが大きくなり、戻れなくなる予感がします。
セミリタイア志向や、ネット社会は特殊だということ
セミリタイア志向や、ネット社会は特殊ですね。常識、非常識が現実社会とは大きく異なっていることがあります。今の私は、どちらかというとネット社会のつながりのほうが深いです。そのため、現実世界のみのつながりの人間関係、価値観に時々戸惑いますね。
先日、ブログのお問合せページから質問がありました。質問自体はよくいただくのですが、前職の違う後輩からでした。何回かメールのやり取りをするうちに誰かわかったのですが、世間は狭いですね。私も驚きましたが、彼も大変驚いていました。
この彼も、定年まで働くということを往復メールの中で言っていましたね。素晴らしいことです。それだけやりがいを見出しているということです。もちろん、一方でセミリタイアして、自分の好きなことに特化するのも素晴らしいことです。
「たったひとりしかいない自分を、たった一度しかない人生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか。」と言ったのは【路傍の石】を書いた山本有三氏です。時代を超えた重みがありますね。
お互いがお互いの価値観を尊重すること、時々会って刺激を受けること、この距離感が私には合っていると感じました。
お金は手段であり、目的ではないですね。もっというと、お金は人生を豊かにするための手段であり、人生の目的、目標にはなり得ないということです。お金の魅力が魔力にならないように、 淡々と日々を重ねていきたいところです。
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セミリタイアをするにあたって、最大の課題は日々の生活費をどうするかということです。経済的な自由が得られれば、時間の自由、行動の自由、すべての自由が得られるわけですね。
経済的な自由の真の価値は、精神的な自由にあります。
セミリタイア後の生活費の作り方です。