たぱぞうの米国株投資

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子どもは負債という問題提起に思うこと

子どもは負債という問題提起

 私は50ぐらいのブログを毎日回覧していて、しかもだいたい眠たい朝の時間に読むのでぼやぼや読んでいます。そのため、その時には癒されたり、心に残ったり、学習したような気になるのですが、1時間後にはほとんど忘れています。

 

 いわゆる短期記憶なのかもしれません。ただ、読むということ、一度は脳に入れる、つまりインプットということが知らず知らずのうちに投資行動や、はたまた人生観の形成につながっています。

 

 正面から深く考えることは少ないにしても、ブログを読む時間はぼんやりとしたいい時間だと思うのです。その時にインプットしたことが十分に消化できなくても、後から別の素材に触れたときに思い起こしたり、さらに発展的な発想につながったりするからです。

 

 この論争はなかなかに面白く、揺さぶる文章だと思いました。

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 めずらしく印象に残りました。こういう問題提起が出るということは、子育てがしにくい社会であり、子育てをするにあたって経済的な苦しさがあることは間違いありません。

私たち一人ひとりの幸せの価値観が揺らいでいないか

 幸せとはなんでしょうか。生きるとはどういうことでしょうか。私が非常に心に残っている言葉として曽野綾子氏の言葉があります。雑な脳みそで例によって残念ながら細部は忘れているのですが、こんな内容でした。

 

 インド・バラナシ。ガンジスの聖なる流れをゲストハウスから一日眺めている若者がいる。次の日。また同じゲストハウスのテラスで流れを眺めている若者がいる。それを繰り返す。それを見たインド人の牧師がいう。

 

 「彼は幸せそうに見えません。一日の時間のすべてを自分のためだけに使っている。誰かの役に立つということが無い」

 

 かの若者よりはるかにインドの貧しい牧師がいう言葉です。たぶん、ここのゲストハウスだろうな、というのはありますが、そこの日本人はだいたい街のインド人よりきれいな服を着ています。豊かなオーラが出ています。まだまだ世界的には日本は金銭的には豊かです。

 

 繰り返しますがインドのバラナシの話です。バラナシというのはヒンズーの聖地であるガンジスの流れにある街で、街自体聖地になっています。そこで、火葬されて、川に流されてヒンズー的には人生が完結するわけです。

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※偉大なるガンガー。人を焼く煙、タンパク質の焦げるにおいの満ちた街。

 

 バラナシはインドらしい下町を持つ貧しい街です。でも、私が好きな街の1つです。バラナシの風景。一日中、牛の糞を練り続け、壁に貼り続け、乾燥させて燃料として売る老婆。恐らく彼女の人生は何十年もそうして過ごされてきたのです。そしてこれからも。誰のために牛の糞を貼り続けてきたのでしょうか。自分のため?家族のため?

 

 ヒンズーで牛は聖なる動物です。そのため、年を取っても屠ることはできません。結果として家計に貢献しなくなった牛は野良牛として放されます。結果、路地で腐ったような生ごみを食べる牛。痩せて骨が浮き出た牛がビニール袋に入った生ごみを生きるために貪る。なんのため?生きるため?誰かの役にたってきたのに?

 

 退職した上司からこんな言葉を聞いたことがあります。たまたまとある体育館で会った元上司、新しくスポーツを始められていて非常に若く見えました。

 

 「今何をされているんですか?スポーツ楽しそうですね?」

 

 という無邪気な私の問いに対し、言われた言葉。

 

 「今は、毎日の殆どをこのスポーツをして過ごしているよ。誰の役にも、社会にも貢献することなくね」

 

 この言葉の重みをどう表現すればよいのか、言葉が見つかりません。在職中はあらゆるトラブルに対応されていて、今こそ自由かと思いきや、この言葉です。

 

 その後、その上司は一念発起して資格を取り、ふたたび働いています。下働きをしています。しかし、どことなくやりがいのある幸せ感が伝わってきます。

育児に夢を持てない、幸せを感じることのできない社会は終わり

 子どもは昨日より今日、今日より明日という世界を生きています。年単位でみるともっと顕著にできることが増えています。

 

 未熟とは成長とはそういうことであり、未来とはそういうものだからです。例えどんなに間違っても、例え今日できなくても、やり直せる明日があるのです。

 

 翻って大人は過去を懐かしみます。それは、明日より今日、今日より昨日のほうが輝いていたことを知っているからでしょう。介護職の難しさというのはズバリ過去に生きる人の心のケア、という面もあります。

 

 私はたとえバラナシの捨てられた牛のようになっても、ラテライトの赤土に骸を晒すことになっても、未来を担う世代に何かを残せるように生きたいです。

 

 しかし、そういう思いさえも経済的に苦しくて思えないならば、自己完結だけを目指す世界ならば、私たちはなにか大切なものを見失いつつあるのかもしれません。そして、それこそが縮小経済で最も恐れる生き方の矮小化なのかもしれません。

 

 保育園やら学費やら、削れないところでお金がかかりすぎているのは間違いないところで、難しい問題提起だと思います。